2025年6月6日
皆さんこんにちは、青森県家庭教師協会・KATEKYO青森です。
今日は青森東事務局教務の直井が担当します。
前回の記事:#6
テレビを見る層は年々減少していると言われるが、
「秘密のケンミンSHOW」「月曜から夜更かし」は社会学や文化人類学に興味のある生徒には必見の番組だろう。
以前、『青森県民は皆、りんごの品種が区別できる!?』という回があった。
いわゆる「りんごの写真と品種名」が載った下敷きが配られるから、
「ふじ」「サンふじ」「つがる」「紅玉」「ジョナゴールド」…
が誰でも区別できる、という話だったと記憶している。
私自身、味や色味など、違いがあることは理解しているが、
果たして大人になった今、「ふじ」と「つがる」が区別できるかどうかは
全く自信がない。
久しく「ふじ」や「つがる」を食べていない。
正確には、久しく「ふじ」としてりんごを食べるという意識的な行動をとっていない。
申し訳ないが、私はどちらも「りんご」としてしか認知できていない。
そもそも、われわれはあの赤くて甘い“果物"を「りんご」だと、いつ、どのように認知したのだろうか。
“ri-n-go"という音声と「りんご」という表記である必要はあの“赤いモノ"そのものにはない。
極論、“りんご"という名称ではなく、「とまと」と名付けてもよかった。
ある家庭で『あれは“とまと"よ』と大人が嘘ぶいて教えたならば、その子は
りんごを「とまと」として認知し、「ママ、“とまと"食べたい」とおねだりするだろう。
やがて、幼稚園や保育園など、社会と接点をもった時にその齟齬に気付かされるのだ。
言葉は記号的役割をもつものに過ぎない、とはじめて教えてくれたのはソシュールだが、
記号は文化固有のコードによって意味をあらわすもので、
われわれは「記号」を用いて、
"混沌"たる世界に意味をあたえて、"秩序"あるものへと解釈する。
写真を撮るときの「ピースサイン」がイギリスでは「ヴィクトリーサイン」として相手を威圧するものだと言われるのも、記号が文化的なものだということをよく表している。
私を含む日本人は、赤いアレを「りんご」と認識すれば十分に秩序ある生活ができるが、
りんごの名産地、津軽の人は単なる「りんご」ではなく、
「ふじ」「つがる」…と認知するのは「津軽」に誇りがあるからだろう。
単なる「りんご」という言語的記号の認知だけではその土地の文化に似合わない。
認知は感性による。
大人になるにつれて、「よくわからないもの」を一般化/体系化してきた経験によって、
世界は非常に住みやすくなっていくが、世界を言葉で文節化した過程で、
「ふじ」「つがる」「ジョナゴールド」の区別は「りんご」と表現するだけで十分となり、
個々に対する感性が失われる。
そうして世界はモノクロになっていくのだ。
2歳か3歳のころ、私は“世界は濃いオレンジ色"だったという断片的な記憶がある
それは視覚障害だとかそういう話ではなく、世界は暖かったのだ。
いつのまにか、世界は一般的な色彩のものになったが、
あのときの感性は、時々物寂しい気持ちになる。
『嬰児のような眼差しで、物事をみつめ、考える。』
私の座右の銘である。
書いた人:青森東事務局 直井
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